リンダウ
リンダウ
ドイツとスイス、オーストリアに囲まれたドイツ最大の湖ボーデン湖に浮かび、アルペン街道の最西端であり、ファンタスティック街道の最南端にある町がリンダウです。
人口2万4千人ほどの町は、その旧市街がリンダウ島という島にあり、中世の時代より、ボーデン湖を行き来する物流の拠点として栄えました。
リンダウと言う名前通り、菩提樹(リンデンバウム)が町の紋章で、旧市役所の裏の広場には何本かの菩提樹が立っています。
この町の見どころは何と言っても、1436年に建てられた旧市役所、その裏に立てられたリンダウの象徴像、港の散歩道、そして中世の面影を残す旧市街の町並みでしょう。
私のリムジン・ハイヤーをご利用しいていただけるお客様には、フュッセンからグリンデルワルトに向かう途中、昼食を兼ねてちょっとここで休憩と街の散策をしていただくようにしています。
ライプチッヒ
ライプチッヒ
この町のニコライ教会での月曜礼拝の後で行われた平和のデモ行進は、1989年、国内の改革を求める国民によって次第にその規模が拡大し、10月7日に8万人が「我々が国民だ!」、というシュプレヒコールを叫びながら旧市街環状線をデモ行進し、これがベルリンの壁が崩壊する大きなきっかけとなりました。
人口55万人の旧東ドイツでは2番目に大きなこの町は、スラブ語で「ウルプス・リプチィ(菩提樹)」という言葉に由来しますが、ドレスデンが芸術の街であるなら、このライプチッヒは商業の街であると言えます。
古くから商業の町で栄え、特に見本市の時期には、内外から多くのビジネスマンが訪れ、東ドイツ時代には、唯一西側の商品が展示され、東ドイツ国民にとって西側の製品に手を触れたり、パンフレット等を手に入れる唯一のチャンスであったのです。
だとしても、日本からこの町を訪れるお客様は、そのほとんどが、トーマス教会で楽士長を務めていたヨハン・セバスチャン・バッハ、彼の作品を再発見した作曲家のメンデルスゾーン、そして、彼も音楽監督を務めていた、民間最古のゲヴァントハウスオーケストラの本拠地を見学にやって来る方たちがほとんどです。
ライプチッヒの旧市街は比較的古い町並みを残していることもあり、また、それぞれがあまり離れていませんので、短時間で効率的に観光ができるようになっています。
食事は、ゲーテのファウストにも出てくる「アウアーバッハケラー」、あるいはローベルト・シューマンが入り浸っていた「カフェ・バウム」、などでいかがでしょうか?
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モン・サン・ミッシェル
モン・サン・ミッシェル
2014 年 10 月 23 日ドイツの日本語ガイド、ドライバーガイドとして、無節操に東西南北どこにでも足を運んでいるのですが、私が訪れたことのある最西端の場所が、フランス・ノルマンディ地方のモン・サン・ミッシェルです。
ここにはプライベートで2回ほど訪れたことがあるのですが、2012年にドイツをご案内したお客様から翌年の2013年、「是非ともまた藤島さんにお願いします」、とリクエスト頂いた親子3名様をお連れしました。
夕方にパリでお迎えし、その足でジヴェルニーの郊外のオーベルジュにご案内、翌日はモネのアトリエを見学して、ジャンヌ・ダルクが火刑となったルーアン、ノルマンディ上陸作戦の戦場を経由してモン・サン・ミッシェルに到着しました。
モン・サン・ミッシェルの観光は翌日の朝一番で終了し、その後でパリに直行、午後3時にはパリのエッフェル塔の近くのホテルに到着、という、前回に続き、弾丸ツアーでしたが、お客様にとてもご満足いただけたようでで何よりです。
現地では、島を繋げていた堤防が壊され、橋の工事がなされており、それと同時に、大きな駐車場ができ、シャトルバスが運行されていました。
私も、この地を訪れるのは非常に好きなのですが、この次に行くのはいつになるでしょうね?
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メルクの修道院
メルクの修道院
2014 年 10 月 19 日ザルツブルクから350キロほど離れたウィーンに向かって車を走らせてしばらく行くと、左側に大きな建物が見えてきます。
これが世界遺産に指定されているメルクの修道院になります。
貞節、信仰、清貧を信条とするベネディクト派の修道院で、ハプスブルク家が支配する以前のバーベンベルク辺境伯がここにあった城を寄進し、1089年に設立されました。
その後、火災などによって修道院は衰退して行くのですが15世紀に力を盛り返し始め、また、 宗教改革の苦難を乗り越え、バロック時代の1702ー46年にヤコブ・パンダウアーによって大改修がなされ、その姿を現在に伝えています。
現在では、900名の生徒を抱えるギムナジウムとして使用されていますが、多くの観光客が修道院の施設を見学にウィーンから日帰りでやってきます。
見所は、何といっても、1800冊の9世紀からの写本や、13世紀の叙事詩「ニーベルンゲンの歌」など、合計10万冊に及ぶ蔵書を擁する図書館と、アントニオ・ベドゥッチによる豪華絢爛な礼拝堂でしょう。
ここの見学を終えたら、下の町でお食事をし、船着場からクレムスまで、バッハウ渓谷を通過するドナウ川の遊覧船でウィーンに向かうのはいかがでしょうか?
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ベルリンの壁
ベルリンの壁
2014 年 10 月 16 日東西ドイツの象徴として存在していたベルリンの壁が崩壊したのは1989年の11月9日のことだから、25年経過したことになります。
「もう、25年も経ったのか・・・・・。月日の経つのは早いなー」、と言う感じですね。
人間の寿命が75年として、単純計算をすれば、3分の1の人間が壁が崩壊した後に生まれ、当時の生き証人がだんだん亡くなって行くにつれ、この事件は、「記憶」、ではなく、「歴史」、になっていくし、次第に忘れられていくののだろうと思うと、残念な気持ちもするが、「仕方がないだろう」、と言う気持ちもしますね。
25年前の今頃は、ライプチッヒで行なわれていた月曜日の礼拝の後で行なわれる「平和の行進」の参加者がだんだん増え、とうとう8万人の大群衆となり、旧市街を囲む環状線を、「我々が国民だ!!」とシュプレッヒコールを叫びながら行進し、それを鎮圧するための軍隊が用意されていたが、指揮者のクルト・マズア氏などの呼びかけにより、流血騒ぎを避けることができた。
もっとも、ライプチッヒ市当局の警察、ベルリンの党幹部なども、どうしていいか分からない、下手に指令を出したら、後でとんでもないことになるかもしれない、と言う恐れから、結局は誰も手を出せなかった、と言うのが本音であったらしい。
デモに参加した市民も同様に、怖かったために、「みんな外に出てデモに参加してください!!」、と呼びかけたと言うことである。
それはそうとして、「あのまま壁が存在し、今でも東西ドイツに分かれていたとしたら、東ドイツはどうなっていただろうか?」、と考えると、全く想像もできない。
これがきっかけで、ヨーロッパの社会主義体制は完全に崩壊し、中国も自由化、と言う道をたどったわけで、世界の事情は完全に様変わりした、と言うことを見ると、歴史の偉大な転換期であったことは間違いありませんね。
私の旧ホームページにベルリンの壁が崩壊した時の話を載せていますので、興味がある方はお読みください。