ヘルシンキ
ヘルシンキ
シベリウスの「フィンランディア」という曲は、音楽好きな人であれば誰でも一度は耳にした曲でしょう。
この曲は、「あまりにもフィンランド国民感情を向上させる」ということで、演奏禁止になったこともあるとか。
一貫して寒々としたフィンランドの気候を思わせる彼の曲を好む人の中には、「シベリウスらしくない」と思われる方もいることでしょうが。
そのシベリウスを生んだ森と湖の国フィンランドの首都ヘルシンキです。
人口約60万人を抱える都市ですが、創立が1550年とかなり新しく、対岸のハンザ都市タリンに対抗する目的だったそうです。
ペストや大火などに加え、スウェーデンやロシアに支配された小国であったために近代化が遅れ、やっと19世紀になってから発展したと聞いています。
そのために、古い町並みはほとんどなく、近代的な建物が立ち並び、歴史的なものを期待していた人たちには物足りないかもしれません。
だとしても、シベリウス記念公園、丘の上に立つ真っ白な大聖堂、ギリシャ正教のウスペンスキー教会、岩の中に建てられたテンペルアウキオ教会、そして、19世紀にヘルシンキを外敵から守るために造られた沖合のスオミンナ要塞、港の朝市の模様など、見ごたえのある施設が沢山です。
ちなみに、朝市ではジャガイモがキロ当たりではなく、0.5や1リットルの升売りで売られていました。
そのためか、売られているのは大きなじゃがいもはほとんどなく、小さなジャガイモばかり。
「小さいほうがおいしんですよ」、と屋台のおばさんが言ってました。
旧東ドイツ
旧東ドイツ
1980年から1985年初頭まで、旧東ドイツのゲルリッツという町の劇場で音楽家の端くれとして生活していましたが、その時に撮った写真を掲載します。
その当時は、ベルリンの壁が開くことはもちろん、個人旅行のガイドとして生活するということも考えられなかったので、ほんの少ししか写真を撮っていなかったので、その当時の模様を詳しくお伝えできないのですが、まあ、こんな感じであった、ということを知っていただければ嬉しいです。
東ドイツのカラー写真は品質が悪く、スライドで撮るのが一般的でした。
そのスライドをコピーして掲載しているため、あまり画質が良くありませんがお許しください。
ベルリン 2 チェックポイント・チャーリー
ベルリン 2 チェックポイント・チャーリー
東西ベルリンを隔てる壁は、1961年8月13日に建設されるのですが、それ以来、東ドイツ国民は、年金生活者、演奏旅行などに行く芸術家、オリンピックなどに参加するスポーツ選手、そして肉親の銀行ん式などの特区別な機会がない限り、西側には出ることが許されていませんでした。
西ベルリンや西ドイツに出るには、決まった検問所を通ることが義務付けられていましたが、最も有名なのが、アメリカ管理地区に抜けるチェックポイント・チャーリーでした。
この検問所内を写真撮影することは厳禁されており、見つかった場合はフィルムを感光させられました。
まだ壁があった時代の西ベルリン川の壁の写真を1枚、壁が開いた後の検問所の様子を何枚か掲載します。
ベルリン 1
ベルリン 1
まさかと思ったベルリンの壁が1989年11月9日に開けられて再統一されて以来、旧東ドイツ、東ベルリンは20年間であっという間に復旧がなされ、その発展には目を見張るものがあります。
ベルリンの魅力を述べるには、このようなブログで行く説明しようにも説明できるものではありません。
お客様にはぜひとも、この町に足を運んでいただき、東西ドイツ、東西ベルリンという場所が、当時はどのような状況であったかという、ガイドの話に耳を傾けていただきたいものです。
そのベルリンの模様をほんの少しだけご紹介します。