ブリュージュ
ブリュージュ
ドイツ個人旅行のガイドとして活動しているが、年に2,3回、ベルギーの武笠セルやブリュージュをご案内することもあります。
実は私はこのベルギーの古都ブリュージュという町が大好きなのです。
まだ学生のころ、オランダの大学に少し滞在していたことがあるのですが、量で一緒だったオランダの学生が、この町の素晴らしさを熱く語ってくれたことを覚えており、脱サラして車でヨーロッパ旅行をした1980年に訪れたのが最初です。
それ以降、プライベート、個人旅行のお客様のご案内でこの町を何回訪れたことでしょう。
そのたびに、「いいなー」、と思うと同時に、お客様には非常に感動していただいております。
13世紀ごろにヨーロッパ各地との交易で栄えたこの町は、15世紀ごろに大嵐によって町を流れるツヴィン川の通行が妨げられ、交易の中心地がアントワープに移って以来、急激に衰退していきます。
現在では、完全に残された中世の街並みを観光する人たちが世界中から集まってきます。
町の見どころは、町の中心地のマルクト広場、その前にそびえたつ鐘楼、ベギン修道院、キリストの血が保管されているという聖血バジリカ、市役所の大ホール、ボートでの運河めぐり、ミケランジェロの聖母像がある聖母教会、ベギン修道人など、小さな町にも関わっらず、全てを観光するのには1日だけでは足りないかもしれません。
そうそう、この町でおいしいブイヤベースを出してくれるレストランがあり、必ずここにお客様をお連れしています。
ブリュッセル
ブリュッセル
ベルギーの首都ブリュッセルは、「沼(bruc)、家(sella)」と言う語源から来ているそうで、 人口約100万人で欧州連合委員会が置かれているなど、欧州の政治の中心となっています。
ブリュッセルは、12世紀には交易と交通の中継点として栄え始め、ブラバント公国の
中心地として繁栄しました。
ずっとドイツ民族の神聖ローマ帝国に属していましたが、30年戦争終了の1648年以降は独立したオランダに含まれ、さらにカトリックが多かった地区が1831年にベルギーとして独立します。
小さな国ではあるのですが、ヨーロッパの中心地として、国連のヨーロッパ本部が置かれています。
この町の見所は何と言っても、フランスのビクトール・ユーゴーが絶賛したグラン・プラス、それを囲むように建っている王の家、市庁舎、ギルドの建物、市役所裏手の食べ物横丁、 小便小僧、アトミウム、聖ミシェル大聖堂、そしてチョコレート、ワッフル、様々なビール、そして、市役所裏手の食べ物横丁など、観光客を飽きさせる要素がありません。
ドイツの日本人ドライバーガイドのリムジン・ハイヤーで、ドイツからデュルブイなどを通過し、ブリュッセルからブリュージュ、アントワープなどを観光してオランダに抜けるコースなどいかがでしょうか?
プラハ
プラハ
「百塔の都」あるいは、「黄金の都」とも呼ばれるチェコの首都プラハは、人口約120万人を抱える大都会になります。
6世紀ごろにスラブ民族が住み着き、10世紀ごろにはヴィシェフラート城が建てられてから町は発展し、1346年に カール4世が「神聖ローマ帝国」の皇帝に選出されると、この町は急激に発展し始めます。
ドイツで最初の大学、モルダウに架かるカレル橋、町の整備などが行われ、その栄華を持って「黄金の都」と評される様になります。
後にハプスブルク家の支配下に置かれるのですが、16世紀後半にはルドルフ2世がこの町に芸術家、錬金術師などを集め、ヨーロッパ文化の中心となります。
30年戦争後、2世紀にわたりチェコ語の禁止、宗教弾圧や文化の弾圧を受け、暗黒の時代を過ごすのですが、19世紀に ヨーロッパ各地で起きた民族運動の影響を受け、民族意識に目覚めた人たちは、さまざまな独立、民族運動を起こします。
その代表的例が、スメタナやドヴォルザークによる「国民楽派」と呼ばれる作曲家たちの作品です。
スメタナの交響組曲「わが祖国」には、この町を流れるモルダウ(ヴルタヴァ)をテーマにした作品が含まれ、そのメロディーは誰でもが一度ならず耳にしたことでしょう。
この町は長い歴史の中でも戦災を逃れ、昔の面影を残している町で、世界中からの観光客を魅了しています。
見所は何と言っても、モルダウに架かるカレル橋、火薬の塔、旧市街、ユダヤ人墓地、ヴィシェフラート城など、興味が尽きることがありません。
プラハの様子はスライドショーをご覧ください。
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フォントネー修道院
フォントネー修道院
2013 年 12 月 24 日フランスのブルゴーニュ地方にある世界遺産のフォントネー修道院跡です。
どういうわけか、12−3世紀に建てられた教会や修道院が好きで、機会あるごとに訪れています。
この修道院は、シトー派の修道院として1118年に創立されたもので、フランス王家の庇護のもとに発展したのですが、18世紀ごろに次第に衰退し始め、フランス革命時には売却されて製紙工場として使われました。
20世紀初頭に銀行家のエイナールという人に買収され、この人が修道院を元の姿にすべく尽力し、現在に至っています。
フォントネーという名前は、「泉」を意味するフォンテーンからきており、修道院の中には立派な噴水が置かれ、水車を使った大きな鍛冶場が残っています。
なぜか写真の貼り付けができませんので、スライドショーをご覧ください。
ブレーメン
ブレーメン
メルヘン街道の終着点であるブレーメンは人口約50万人の町になります。
この町を有名にしたのは何と言っても、ロバ、犬、猫、そして鶏の4匹で構成される「ブレーメンの音楽隊」でしょう。
その銅像は、町の中心にあるあまりにも有名なブレーメン市役所の一角にあり、ロバの足を触ると幸せになるとか。
その市役所の前に立っている大きな像がハンザ都市、帝国自由都市であった町の自治の象徴であるローランド像です。
町の見どころとしては、その市役所前の広場からヴェーザー川に通じるベトヒャー通りと名付けられた、その昔は樽職人が集まっていた通り、そして戦災を免れ、現在では大小さまざまなレストラン、ブティックが立ち並ぶシュノーア地区と呼ばれる場所でしょうか。
ドイツ個人旅行のお客様をメルヘン街道にご案内する機会は2,3年に1回ほどしかなく、ちょっと残念です。