アウシュヴィッツ強制収容所 5
アウシュヴィッツ強制収容所 5
多くの国から輸送されてきたユダヤ人の持ち物は略奪され、収容者達によって仕分けされてからドイツ本国に送られました。
髪の毛はフェルトの材料、時計などはドイツ軍兵士に支給され、今でも膨大な量の仕分けされた品物が展示されています。
アウシュヴィッツ強制収容所 4
アウシュヴィッツ強制収容所 4
収容者たちは、劣悪な生活環境の中で、周辺の軍需工場などで過酷な労働を強いられたのですが、毎日、門の前でオーケストラが演奏する行進曲に合わせて、「Arbeit macht frei(働けば自由になる)」と表示されたゲートを通って強制労働に向かわされました。
ゲートのそばの24Aブロックには、後に収容者たちの労働を鼓舞する目的で、女性収容者を利用した買収宿が設置されました。
アウシュヴィッツ強制収容所 3
アウシュヴィッツ強制収容所 3
1940年5月、親衛隊長官ハインリッヒ・ヒムラーは、ポーランドのオスヴェンチムにあるポーランド軍駐屯地であった敷地に強制収容所が開設されました。
レンガ造りの約30棟からなる収容所には、最初はポーランドの政治犯やソ連軍捕虜など、後にはユダヤ人などが収容され、建物の中のわらを敷いた部屋に寝かされましたが、後に木製の3段ベッドが置かれました。
ユダヤ人の絶滅を図るために、10番ブロックでは女性には外科手術、レントゲン線放射などによる不妊処置の人体実験が行われました。
毎日支給される食事は、1500-1700カロリーで、朝はコーヒーと呼ばれる出し汁、昼は薄いスープ、夜は約300グラムのパンと約30グラムのジャムはソーセージが支給され、収容者たちは急激にやせ衰えていきました。
医療設備もなく、「生き残らない」と判断された人たちはガス室に送られるか、フェノールを心臓に注射されて殺害されました。
11番ブロックは懲罰ブロックと呼ばれ、ここの地下で600人のソ連軍捕虜と250人のポーランド人に対する最初のチクロンBを使ったガス殺戮が行われ、他の収容者の代わりに飢餓死刑を受けたマキシミリアン・コルベ神父の懲罰房が残されています。
また、10番と11番ブロックの間にある中庭では銃殺刑が行われ、その壁は死の壁と呼ばれています。
アウシュヴィッツ強制収容所 2
アウシュヴィッツ強制収容所 2
ガス室行きを逃れ、労働力として一時の期間、死を逃れた人たちは、全身の毛髪を刈り取られた後で受付バラックで収容者番号を左腕に刺青され、写真を撮られて個人カードの登録されました。
また、この収容所には政治犯、戦争捕虜、ユダヤ人、非社会的人物、ものみの塔信者、聖職者など、さまざまな人達が収容されていましたが、それぞれに違ったワッペンを左胸に縫い付けられていました。
アウシュヴィッツ強制収容所 1
アウシュヴィッツ強制収容所 1
ヒトラーとユダヤ人に対するホロコーストに関しては、ドイツの大きなマイナス点であることに異を唱える人はいないでしょうし、この件に関する質問がお客様から出た場合、ドイツ在住の観光ガイドを生業としている身としては、ある程度納得いただける説明をするのは、ガイドとしての義務でもあります。
すでにこの地を2回訪れていたのですが、原書房から出版された、「チェロを弾く少女アニタ」と、「ホロコースト全証言」という書籍の翻訳に関わった身としては、もう一度この地を訪れ、されに詳しく現場検証なことをするつもりで訪れました。
ポーランド語で「オスヴェンチム」というこの町のポーランド軍の駐屯地後に1940年5月に第一収容所の基幹収容所(シュタムラーガー)、41年10月にはビルケナウ収容所、42年からは工場地帯のモノヴィッツ収容所、さらに周辺の炭鉱など約45ヶ所の外郭収容所が置かれました。
最初はポーランドの政治犯が収容されたのですが、41年6月にソ連侵攻以来、ソ連軍捕虜、そして戦争の激化とともにドイツに侵略された国々のユダヤ人が強制輸送されてきました。
特に有名なのはアウシュヴィッツ-ビルケナウ収容所ですが、ユダヤ人をはじめ、ポーランド人、ソ連軍捕虜、シンティ・ロマ、同性愛者、エホヴァの証人、聖職者など、合計約110万人が犠牲になったと言われています。