フレンスブルク
フレンスブルク
ドイツ最北端の街フレンスブルクは、人口約8万4千人ほどの町になります。
この町に行くことになったのは、ある食料関係の会社の方たちが、ドイツ国内とデンマーク、オランダの会社の視察旅行の交通手段として、私のリムジンサービスをご利用頂いたことによります。
ここに来ることで、ドイツの東西南北すべてを網羅した、と言えるかもしれません。
もともとはデンマーク領であったこの町は、中世の時代からコペンハーゲンに次ぐ港町として栄えましたが、特に18世紀になってから、ラム酒や砂糖がカリブ海から運ばれて精製され、ヨーロッパ各地に出荷されました。
ドイツ領となった現在でも、対デンマークとの貿易港として栄えています。
フランクフルト 4 クリスマスマーケット
フランクフルト 4 クリスマスマーケット
11月末から12月22日ごろまで、ドイツではどこの町でもクリスマスマーケットが開かれるのですが、その町によってそれなりの特徴があります。
フランクフルトのマーケットは、戦後この町の近くにアメリカ軍の飛行場や駐屯地が置かれたせいでしょう、屋台の照明とか街のイルミネーションがカラフルで非常に派手な印象を受けます。
フランクフルト 3
フランクフルト 3
フランクフルトは第2次大戦中に33回連合軍の爆撃に遭い、奇跡的に破壊をまぬがれた大聖堂以外のほとんどが破壊されたのですが、戦後の街の再建のコンセプトが失敗した、と言えるかもしれません。
というのは、中央駅、ゲーテハウス、市役所を含むレーマー広場などの街の一部を除いて、味気ない急ごしらえの建物を建てたために、観光にはちょっと向かない町になってしまいました。
そのために、この数年来、1950、60年代に建てられた建物が解体され、近代的ではあるものの、周りの景観に沿うような建物が再建されつつあります。
フランクフルト 2 ゲーテハウス ドイツ|個人旅行|ガイド|フランクフルト
フランクフルト 2 ゲーテハウス ドイツ|個人旅行|ガイド|フランクフルト
ドイツを個人旅行でフランクフルトを訪問するお客様は別として、団体旅行ではほとんど訪れることがなくなったのですが、それでも年に何回かはゲーテハウスを訪れて、内部のガイドをすることがあります。
ゲーテの祖母は町の中心で旅籠とワインの売買をしており、祖父に当たる人は婦人服の仕立て屋を営んでいたのですが、祖母の2番目のご主人として結婚します。
この祖父はフランクフルトで大出世をし、とうとう市長まで登り詰めました。
その息子夫婦のために2軒の家を購入して住まわせたのですが、この家の両親の寝室で1841年にヴォルフガングが誕生します。
彼は父親から大変なスパルタ教育を受け、8歳のころにはラテン語の翻訳ができ、16歳のころには5か国語が堪能だったと聞いています。
大学の勉強を終えた後、町に戻り弁護士として活動する傍ら、作家としてデビューし、特に「若きウェルテルの悩み」はベストセラーとなりました。
黄色いシャツを着ているウェルテルが最後は自殺しますが、若者たちの間では黄色いシャツが流行し、自殺をする人も現れたとか。
また、女性たちは「ロッテのように愛されたい・・・・・」と憧れたとのこと。
そのロッテという名前が20世紀にどこかの国に飛んで来て、チョコレートの名前になったと聞いていますが本当でしょうか?
ゲーテは26歳の時にワイマール公国のアウグスト候に顧問として招かれ、かの地で生涯を終えます。
このゲーテハウスは爆撃で完全に破壊されました、生まれた方の建物を昔通りに再建し、一般公開されています。
フランクフルト 1ドイツ|個人旅行|フランクフルト空港
フランクフルト 1ドイツ|個人旅行|フランクフルト空港
フランクフルトは人口約60万人と、日本人が考えているほど大きな町ではありません。
「フランクフルトは何の町ですか?」、と質問すれば、10人のうちの10人が、「ソーセージ!」、と答えますが、この町は金融の街であり、中央銀行であるドイツ連邦銀行がここにあり、世界中の金融機関がこの町に集まり、ユーロを司るヨーロッパ中央銀行も、この町に置かれています。
銀行家で最も有名なのは、ユダヤ商人であったロスチャイルド家はこの町の出身で、ロートシルト(赤い楯)という看板からこの名前で呼ばれるようになりました。
また、アムステルダムの隠れ家に籠っていたアンネ・フランクは、この町の出身ということはあまり知られていません。
お父さんがやはり金融に携わっていましたが、ヒトラーが政権を取ったために身の危険を感じ、アムステルダムの友人を頼って移住していきました。
そして、第2次世界大戦中に多くのユダヤ人を助けたオスカー・シンドラーは、戦後この町に住んでいました。
意外な人物がこの町に住んでいたわけです。